快適なメガネ生活をご提案する
メガネのササガワ(東京北区十条)店長です。
大正13年(1924年)創業の当店ですが
なぜ祖父は時計職人になったのでしょうか?
明治35年(1902年)新潟県高田市(現、上越市)の三男として生まれた祖父。
国内有数の豪雪地帯であり、祖父はたいそう辟易したようです。
大正6年(1917年)中学を卒業するとすぐ東京に出て、時計店の丁稚奉公として
働き始めます。おそらくその時すでに、将来自分のお店を持つという願望があったと思います。
(昭和20年代後半か30年代初めころの当店店頭)
当時の時計業をざっくりと調べてみました。(SEIKOミュージアム銀座参照)
明治5年(1872年)に改暦にともない時分秒の定時法が採用。
そして明治は欧米列強に負けじと近代化が進んだ時代でした。
時計業界も、明治14年(1881年)に服部時計店(現、セイコー)が開業、
明治25年(1892年)に精工舎(服部時計店の製造工場)が
掛け時計の製造を始めます。
日清戦争(1894年)と日露戦争(1904年)の間には、
懐中時計や目覚まし時計の製造(パーツは輸入?)も始めています。
明治42年(1909年)に国産懐中時計、
大正2年(1913年)に国産腕時計の製造が始まったようです。
まさに祖父の小学生から中学生時代に国産の時計技術が進化していくのを
目の当たりにしているのです。当時の最先端技術で作られた時計を
どこかの時計店のショーウインドウ越しに眺めていたかもしれません。
当時の腕時計の価格は9.5円~29.5円ぐらいらしいです。
当時の新聞の価格と現在の価格から想像すると
現在の価格で4万円~12万円ぐらいでしょうか?
現在とそんなに変わらないようにも感じますが
当時の年収333円なので、腕時計が年収の35分に1とか11分の1と考えると
かなり高価のものだと想像できます。
明治の中頃から時計の需要が急増したようですが、
腕時計などまだまだ一般庶民には手の届かないもので、
掛け時計がその大半を占めていたようです。
そして当時の時計は高価な割に故障も多く、修理して一生大事に使うのが当たり前でしたので
時計業=時計修理職人であったと思われます。
「学校の勉強なんか出来なくても技術さえ持っていれば食べていける」と
祖父は考えていたと想像できます。っていうか生前よく言われました。
メガネ業界的に大きな出来事としては
明治38年(1905年)に増永五左エ門が大阪より眼鏡職人を招き、
福井市で眼鏡枠づくりを初めています。
近代化とともに時計やメガネも輸入品から国産品へ、
高級品から一般品へとという時代だったのではないでしょうか。
ではまた・・・店長